[4] ブリュノコンサート 4 


■ 深く、深く

 さて、モンマニーですでに精神的余裕が出ていた私、その次のベコモ、セティルのCote Nord コート・ノール(直訳すると「北岸」)では、さらに深くコンサートを味わっていました。

 どちらの日も最前列だったけれど、もう「ブリュノに笑いかけてほしい」という気持ちはなくなってました(もちろん、笑いかけてもらった時はとーっても嬉しいんですよ〜〜)。純粋に、ただひたすら彼のコンサートそのものを味わっていると、不思議とそういう気持ちは自然と消えていたのです。
 そして、以前は「この瞬間を一瞬たりともなくしたくない、忘れたくない、目に焼き付けよう・・・」という気持ちがとても強かったのですが、やはりそういう気持ちもなくなってました。目を閉じて聞いてることさえありました。さすがにその時はほんの少し勇気がいったのですが、目を閉じてみて、大丈夫、大丈夫・・・ああ、素敵な声だ・・・。

 ブリュノが「Depuis que t'es parti 君が去ってから」を歌った時のこと。私にはこの歌を聞くと思い出す悲しい記憶があり、それがかすかに頭に浮かびました。そしてまた、ブリュノも持っているかもしれない何かしらの記憶のことを思いました。でもすぐに、そういう思考をあえて消しました。
 歌を聞くとき、自分の過去を振り返りながらというのはごく当然のこと。自分の記憶が歌の歌詞にマッチした時、その歌は心の琴線に強く響きます。もちろん、私もそう。でも、この時私は「記憶によって聞く」ということをやめたかった。私の経験はブリュノのものとは違うだろうし、また作詞家のそれとも違う。「自分」というものを消し去りフラットな状態で、ブリュノの心の奥からほとばしるものだけで、この歌を聞きたかったのです。

 ・・・気が付くと、ずいぶん深く「潜っている」自分を感じていました。それはまるでブリュノ・ペルティエという海の底にいるような感覚。ブリュノの歌を通して彼の鼓動を聞いているような感覚。私はブリュノを見ていたというより聞いていたというより、強く強く感じていました。



 そういう状態の途中で、はっと「見えた」こと。

 「ブリュノは違う・・・ブリュノは生きてる・・・」
 違う?何と?
 他のアーティストと。
 どこが?歌のうまさが?素敵な声が?
 もちろんそれはそう、でもそれだけじゃない。それ以上のもの。

  いろんなショーを見、いろんな人に感動してきたけれど、違う、ブリュノは違う。ブリュノがすっくと立っている高み、その輝き。それがはっきり見えました。他の人より高いところ、他の人には立てないところ,テレビを通してでは決してわからないもの・・・。

 例えば、きれいな海の写真を見ればそれだけで私たちはうっとりできます。実際にその浜辺に着けば、まずは「来た!」という感動、そして本物の太陽の暑さ、海水の冷たさに喜び、実際に泳いでみて存分に楽しみます。写真ではわからなかった沈む夕日の美しさに酔い、波の高さの違いに驚き・・・コンサートに行って楽しむ、というのは普通はここまでの段階。
 でも、ほんのもう少し努力をして海中深く潜って私が見つけたのは、渚とは全く違う美しい世界・・・透明な海の中に珊瑚礁を見つけ、さらにそこに輝く真珠を見つけたようなもの。まるで想像しなかった世界・・・。

 「コンサートの中でどれが一番よかった?」と聞かれても、私はうまく答えられません。深く海の底をただよっていると、水面が凪いでいるのか波が高いのかさして違いはないのです。体はリズムを刻んでいても、耳はブリュノの声にうっとりしていても、心はブリュノの世界の底に行き、珊瑚の美しさと真珠の輝きを堪能していた、そんな感じです。

 コート・ノールでいろんな発見をするだろうと思っていました。でも、新たなブリュノ・ペルティエをこんな風に発見するとは思ってもいませんでした。

 素敵なショーをありがとう、ブリュノ。あなたはいつも「ありがとう、皆さん!」と言ってショーを終えるけど、私はそのたび「お礼を言うのはこっちのほう・・・」と思ってた。
 ありがとうを千回、そして私はまたいつか、あなたのコンサートに行くよ。大海原を越えてね。



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「彼方へ」 5

Bruno Pelletier Japan